大久保俊輝の「休み中に考えたい学校問題」【第31回】
NEWS指導案は簡素に
指導案作成に多大な労力を使ったのに本番の授業では無理がきて、実態に合わない授業をして撃沈する教師を多数見てきた。
それよりも板書を見た方がよほどイメージしやすい。生きた授業は様々に変化するし、より高い価値を生み出すものである。それは想定を越える事もある。だから面白いのだ。
その結論は、指導案の簡素化であり、データサイエンスへのシフトにある。私はここ数年有益なデータを様々に集積し、発問に対する思考を分析し、授業にも研修にも臨むようにしている。満足度は確実に上昇している。
ただし、教えねばならない事はある。また、考えさせねばならない事もある。それなのに指導案に執着すると、筋とは異なるものの貴重な呟きを無視したり、気づかなかったりしてしまう。計画通り流したいと思う教師の余裕のなさや、専門性や対応力のなさから無理やり児童生徒をレールに乗せる想定内の授業になる。
これなら動画再生でも可能であり、そうした授業には魅力を感じないばかりか、発見や驚きや感動は極めて少ないと思える。力量のある教師ならターゲットは外さずに、臨機応変にアドリブでやれるはずである。
こうした教師が最近極めて少ないように感じられてならない。年々増える講師依頼で参加者が求めているのは、日々の実践から伝えられる児童生徒と教師の生きたやり取りではないだろうか。実態をどうつかみ、分析して、仕掛けるかという判断と選択と手法が求められる。
私はかつて指導主事として学校を訪問指導した際に、指導案の書けない教師を厳しく指導した事があった。しかし、その実際の授業は立派な指導案を書いた教師より、数段に素晴らしかった事を鮮明に覚えている。
(おおくぼ・としき 千葉県内で公立小学校の教諭、教頭、校長を経て定年退職。再任用で新任校長育成担当。元千葉県教委任用室長、元主席指導主事)