生徒指導~小学校段階での考え方~【第5回】
NEWS小1の性同一性障害(下)
自分の性別に違和感を持つ小学校1年生に対応した経験の続きである。当時の勤務校で一番厳しくて一番優しいと思われたA先生に担任してもらうことになった。このA先生の前校長の評価は悪く、煙たい存在として私に引き継がれた。しかし、それは前任の視点であり、私の視点ではない。すなわち人は会ってみないと分からない。噂には悪意が含まれやすいからである。
この児童への対応のポイントは何であったかを振り返ってみたい。
・どのような子どもなのか。
・保護者はどのような人なのか。
・経緯はどうなのか。
・医師はどのように診断しているのか。
・医師はどんな人物か。
・教員のスキルや対応力
・保護者達への説明
・トラブル想定
・関係機関の担当の資質と力量
・配慮することと、しないことの線引き
細々としたことは他にもあるが、事が起きてからするか、事が起きる前にするかに、構え方は分かれる。
なお、この事例について、前例がないために記述して皆に共有してもらいたいと実践論文にして教育誌に掲載を依頼した。これを見た文科省から引用の話がきた。「特別な配慮や特別な扱いが必要と表記したい」と言われた時に、「配慮はするが、特別な扱いはしない」と訂正を進言した。人権や生徒指導に加え、学校、社会、家庭という多様な視点を交えた想定ができないと机上の空論となってしまう。
とかく教育評論家の論調は、メディア受けしやすいものが多く、学校現場で待ったなしの対応を日々迫られる教員の感覚とずれているように私には感じられる。生徒指導の目標について文科省の生徒指導提要では、自己指導能力の育成としている。では、なぜそれが身に付かず親子殺し、無差別殺人、青年の自殺が続くのか。自殺する者、罪を犯す者も生徒指導や道徳等を学んできたはずであり、担任した教員がいる。
教え子が犯罪者としてメディアに出たとき私達教員はどのように感じるのだろうか。ここに小学校、いな幼児期における関わりや指導 、いわゆる生活指導、児童指導、生徒指導が基盤になっていることに気付くのではないだろうか。この手遅れを私達は「仕方ない」としてはいないか。最近の児童虐待は目に余るがその親を育てた教員は存在する。それはあなたになるかもしれない。
眼前の児童にどう関わるか。学歴や経歴よりも、今、何ができるかに一切がある。
(おおくぼ・としき 千葉県内で公立小学校の教諭、教頭、校長を経て定年退職。再任用で新任校長育成担当。元千葉県教委任用室長、元主席指導主事)