【寄稿】「競争教育をやめた国からのメッセージ~競い比べることに意味を持たせないで~」
NEWSオランダ・ハーグ在住でフリーランスライター・薬剤師の島崎由美子さんから「競争教育をやめた国からのメッセージ~競い比べることに意味を持たせないで~」と題する論考が届いた。日本教育新聞電子版の2021年4月14日公開分で掲載した島崎さんの寄稿は、別の文章と共に中等教育学校の入学者選抜で採用された。今回の寄稿は、この入学者選抜で対比して読むように求められた文章を念頭にまとめたもの。過度な競争の危険性を訴えている。
競争教育をやめた国からのメッセージ~競い比べることに意味を持たせないで~
日本教育新聞に投稿した私の論考が、ある市立中等教育学校の適正検査問題で、取り上げて頂いたこと、大変嬉しく感じております(日本教育新聞 2021年4月14日 https://www.kyoiku-press.com/post-229131)。
一方、日本の社会では、他人と比べられるのが当たり前だから、社会で生きていくための準備の場である学校でこそ競争があることを教えておくことは必要である、という一徹無垢(いってつむく)の考え方があることを知りました(日刊SPA! 2021年10月20日 https://nikkann-spa.jp/1786823)。
“競い、比べることが、未来の日本社会を担う子どもたちのためになる”という論調はとても危険な思考です。
「競争社会で生き抜く子どもたちのためを思うならば」「子どものマイナスにしなければ、マイナスにならなければ」を前提に、いくらでも競い、いくらでも比べていいという、競争教育が生み出した日本の大人の価値観は、まさに極論まで生み出しています。
私は、「日本が抱える不登校問題へのメッセージ」を寄稿していますが(日本教育新聞 2020年5月7日 https://www.kyoiku-press.com/post-216009/)、今回、いじめや不登校のない教育の国からあらためてメッセージを送りたいと強く思いました。
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私が暮らすオランダや隣国のデンマーク、そしてフィンランドでは、学校教育で子どもたちにテストをして順位などはつけない制度を取り入れています。能力別の学級編成なども行いません。能力別にクラスを分けることは、差別をつくり、何の効果もないと考えているからです。
特にフィンランドは、学校教育の中で子どもたちに競争させることをやめたら、世界トップクラスの学力国になっています。フィンランドは、人口550万の小国です。かつては優れた人的資源もなく、会話も人とコミュニケートするのがとても苦手な国民であると言われたりしました。
しかし、今のフィンランドは、コミュニケーション力を重視する、世界学力テストで上位にランクインする国です。その源になっているのが、競争を廃止したフィンランドの学校教育なのです。
オランダもそうですが、学校教育では、子どもが自ら学ぶことを教育の基本に据えています。競争などで学習を強制することを廃止して、グループ学習、生徒同士の教え合いを大切にしています。子どもたちがマイペースで学べるように工夫しているのです。
フィンランドやオランダの学校では、移民や難民として受け入れられた子どもたちが多く、言語や文化に慣れず学校に通えなくなる子どもがいます。もちろん、学校に通いたくないと感じているフィンランドやオランダ国籍の子どもも存在しています。
競わないことを学校教育の基本に据えたこれらの国々では、入試の必要がなく、自由に学校が選べて、学校が子どもに合わなければホームスタディの制度もあります。
学校に行くことが強制ではないので束縛もありません。そのため、子どもたちは追いつめられることがなく、合う環境を学校が整えるという考え方が子どもにも理解されているようです。
一方、日本では、学校を休むことを肯定的に捉えて、2016年に教育機会確保法が制定され、学校外での学習活動や体験活動を評価していく方向に進んでいるように感じています。
このように、両国における学校教育の方針は異なります。しかし、世界を見ると、競争を廃止して、優れた学校教育の成果を上げている国々がたくさんあります。時代が大きく変わってきています。
1995年を境に、世界の教育は知識を詰め込む教育を廃止し、自ら学ぶ子どもたちを育てる教育を目指すという方向に大きく変わってきています。子どもたちに「学び方の学び方」を教えているのです。
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では、日本の学校教育の問題は何でしょう。国民の多くが学力中心の教育観に縛られていることが大きな問題ではないでしょうか。
日本の教育基本法では、その第一条において、「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」と定めています。
そして、第二条においては、「教育の目標を、知・徳・体の調和のとれた発達を基本に、自主自律の精神や自他の敬愛と協力を重んずる態度、自然や環境を大切にする態度、日本の伝統・文化を尊重し、国際社会に生きる日本人としての態度の養成」と定めています。
こうした日本の教育の基盤には、その国、その時代の社会が理想とする人間像を目指して豊かな情操と道徳心、健やかな身体を育むという、徳育の意義と普遍性が掲げられています。
江戸時代初期の儒学者で、近江聖人と呼ばれた中江藤樹は、著書「翁問答」の中で、よくない子育てとして「姑息(こそく)の愛」をあげています。す。
彼の言う 「姑息の愛」とは、子供に苦労をさせず、子供の願いのままに子供を育てるということです。
では、教育で一番大切なことは、何でしょう。私は、自己中心性、つまり、わがままに育てないということだと考えています。
子どもたちは、善悪の区別と自制を教えないと本来わがままなものです。そのわがままを抑えて自制する力は意志力です。この意志力は耐える力を育てることによって伸ばされます。早寝早起きをすることで、耐える力や意志力が育くまれます。
子どもは年齢が上がるにつれて、自分自身でできることが確実に増えていきます。その中には、競うことで培われた学力や体力を重視するよりも、他人とつながる力、すなわちコミュニケーションの力が重要ではないでしょうか。
さまざまな問題に出会ってしまったとき、自分で考え、他人と折り合いを付けながら解決できることは、長い人生を生きていくうえでとても大切なことです。
なぜなら、多くの人が集まる集団の中では、人間関係の摩擦は当然起こりうるものだからです。学校生活の中でも人間関係の小さな摩擦は存在しますし、社会に出れば人間関係のより大きな摩擦を経験することになります。
このような経験を積み重ねながら、子どもには思考力や判断力が身に付き、徐々に大人として自立することができるようになっていきます。
もちろん、子どもが幼い頃は、親が介入して解決の方向性を示してあげることが大切です。しかし、子供の年齢や発達段階を考慮し、学校教育の中では、競わない楽しさを教え、子供たち同士で話し合い、折り合いを付ける力を身に付けさせることが最も大切なことではないでしょうか。
競う楽しさもあることでしょう。「学校で競争があることを教えておくのは必要なことです」という個人的な論調もあるようです。大人になって社会に出ると他人と比べられるのが当たり前だからというのが主な理由のようです。》
そして、学校とは子どもたちが社会で生きていくための準備の場であり、社会に競争があることは、学校教育で教えていくことが必要であると論じることでしょう。
日本社会には、逆に比べられることで客観視を育み、上手く生きている人の真似をしようとすることが、競争力を身に付けるきっかけにも成り得るという論調まで存在しています。
驚くことに、比べられてできない子という劣等感を抱かせないように、比べられてもできる子となるための得意なものを探して教えた方が健全であり、その子のためにもなるという考え方もあります。
得手不得手を子どもが知り、努力したことが身に付いているかを確認するために、競争やテストが存在しているとも論じられています。
子どものためを思うなら、競争を避けるのではなく、競争やテストを受け入れ、得意な能力を伸ばしていくことを考えるほうがいいとも論じられています。
このような論調、考え方こそ、先に述べたとおりの、「姑息の愛」なのではないでしょうか。教育に競争はいらないのです。
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日本の古典的な教科書では、すべての子どもに忍耐を教えることの大切さを説いてきました。教育の一番の目的は、子どもの自己中心性を取ること、相手のことを思いやる心を育てることです。
子どもは、忍耐を覚えると耐える意志力が身に付きます。そして、子どもは自然に感謝することを学びます。
だから、子どものためと言って、競い比べることに意味を持たせないでください。刷り込まれた競争教育、比べることの意義で育まれてきた大人たちの妄信、固定観念が見直されていくことを切に願います。
コミュニケーション力を重視する海外の学校教育では、子どもたちが互いに教え合い、マイペースで学べるような徳育を実践しています。日本社会においても、競わず比べない学校教育を社会の根幹とお考えいただければ、と望んでおります。
筆者紹介
薬剤師(日本)。1989 年渡米。1997 年帰国。三井記念病院勤務などを経て2015 渡蘭。自身の鬱と向き合う。ALS 女性の在宅介護を経験。現在フリーライターとして活動中。言語学者(エスペラント語)の祖父、高等学校英語教師の父を持ち、言語学・教育・医療・介護に造詣が深い。アクセス先:yoomee.0126@gmail.com